東京バレエ団と、雪の夜
カイ·2026年8月15日

ハロウィンの飾りが片づけられ、店先にはもみの木が並びはじめ、ふくよかなサンタクロースが街角に現れる。クリスマスが静かに近づいていた。何年も前の話だ。渋谷の駅から数分歩いた先にある、おしゃれな居酒屋でひとりの女性と出会った。
お決まりの質問がひとしきり続いたあと、彼女は自分のことを話しはじめた。話し方と聞くときの仕草を見て、看護師か、学校の先生かと想像した。声はやわらかく、笑顔に不思議と目が留まる。ほっそりとした体つきで、深い色の目をしていた。笑うとまわりまで明るくなるような人だった。黒髪は鎖骨のあたりで結んでいて、話の合間に何度も直す。落ち着くための小さな癖に見えた。
ところが、看護師でも先生でもなかった。彼女は東京バレエ団のバレリーナだと言う。生まれてこのかた、バレリーナに会ったのは初めてだ。でも、なるほどと思った。僕が想像していたバレリーナというのは、まさにこういう人だ。
聞きたいことは山ほどあった。公演はどのくらいの頻度で開くのか。本番前は緊張しないのか。つま先立ちで踊るのは痛くないのか。彼女はひとつずつ答えてくれて、最後に思いがけない言葉を添えた。「日本のバレエを体験してみたいなら、十二月に観に来てください。『くるみ割り人形』を上演します。気に入るかもしれませんよ」
バレエのことはよく知らない。それでも『くるみ割り人形』は知っている。チャイコフスキーの、クリスマスを題材にしたバレエだ。それが何より嬉しかった。僕はクリスマスが大好きなのだ。飾りつけ。延々と流れる定番のキャロル。そして映画。『ホーム・アローン』もジム・キャリーの『グリンチ』も何度観ても飽きない。
思い出もある。裏庭で弟と作った巨大な雪だるまは翌日の雪合戦であっけなく倒された。祖母の台所からは焼き栗の香りが漂い、母の焼き菓子の甘い匂いと混ざり合う。あの季節だけは地元のニュース番組の口調までやわらかくなる気がした。だから彼女の誘いを二つ返事で受けた。
数週間後、僕は鏡の前に立っていた。手持ちのなかでいちばんきちんとした服を引っ張り出して。黒のポプリンシャツにフレンチカラーとダブルカフス。ベージュのチノパンに黒い革ベルト。正直、悪くない。ネクタイはやめた。もらったものはどれもシャツに合わなかったので。普段はスポーツ系か軍物系の服ばかり着ていたから、こういう格好は照れくさい。そして、最後の仕上げ。とんでもなく型崩れしたボロボロのボンバージャケットを羽織った。ほかに上着がなかったというのもある。でも少しだけ、「優しいヤクザ」の雰囲気が気に入ってもいた。
会場は上野にある東京文化会館。開演前、案内所の女性に道を尋ねた。彼女は最初、事務的で、どこか遠慮がちだった。すると、ボロジャケットを脱いで下の服を見せた瞬間、わずかな驚きから柔らかい笑顔へと変わる。シャツをひとこと褒めてくれた。幕が一枚、そっと開いたような気分だった。
ドレスコードはなかった。まわりの客の服装を見ればわかる。でも僕にとっては滅多にない一張羅の出番だった。その小さな努力が夜を特別なものにしてくれる。入場を済ませてホールへ進むと、入り口近くに大きなクリスマスツリーが立っていた。老若男女がその木の前で写真を撮っている。僕は撮らなかった。いま思えば、あの夜の証拠が一枚も残っていないのは少し惜しい。それから、気取った洋画の登場人物にでもなったつもりで、スパークリングワインを一杯頼んだ。
ワインを片手にまわりを見ると、客席は女性が多く、世代も幅広い。もちろん男性がいないわけではない。僕自身がいる。僕は「自分には縁のない世界」と決めつけて会場に来た。ところが、いちばん印象的だったのは小さな子どもたちの目だ。開演前からあんなに輝いている。それを見ているうちにその決めつけが少し揺らぎはじめた。もう少し考えを深めようとした瞬間、場内アナウンスが流れ、照明が落ちていく。
席は四階の中央バルコニー。視界を遮るものはない。東京文化会館の大ホールは木の温もりが幾重にも重なる、計算され尽くした上品な空間だった。音響パネルが波のように立ち上がり、柔らかな金色の光が舞台を照らす。客席は薄闇に沈む。舞台は遠いけれど、オーケストラピットの生演奏がホールの空気ごと震わせる。最初の一音が響いたとき、体中の力がすっと抜けた。
幕が上がる。クリスマスイブの夜、どの窓にも明かりが灯る大きな屋敷の前に馬車を降りた招待客が次々と到着する。ランプに照らされた雪道。毛皮の縁取りのマント、ビロードのコート、刺繍の施されたチョッキ。贈り物が交わされ、挨拶が行き交う。子どもたちが雪玉を投げ合い、静かな舞台に明るい笑い声が弾けた。雪と灯りと笑い声。祝祭の夜がそのまま形になっていた。
音楽が高まり、場面が家の中へ移る。僕は待っていた。友人が登場する瞬間を。その夜、彼女に与えられた役は少年だった。衣装がすべてを物語る。歴史衣装から借りてきたような、仕立てのよい灰色の上着に、貴族の乗馬服を思わせる半ズボン。メイクが輪郭を少年らしく整えているのに、柔らかな女性らしさが透けて見える。その対比が役に不思議な説得力を与えていた。弾むような足取りで少年が仲間の輪に加わる。身振り手振りのおしゃべり、贈り物の交換。とまどいと愛嬌が混ざった、絶妙な動きだった。ふと立ち止まり、年上の登場人物に小さな包みを差し出す。真剣な眼差しを見た客席からそっとため息のような声が漏れた。
夜が更けると、舞台は一変した。時計が真夜中を打ち、クリスマスツリーがにょきにょきと伸びていく。家の中にねずみの軍団が押し寄せ、くるみ割り人形が兵隊たちの指揮官になって応戦する。兵隊たちの動きはぎこちなくて、それがかえって本物のおもちゃらしく見えた。ねずみの王様との一騎打ち。小さな兵隊たちの奮闘に客席から歓声が上がった。夢のなかの戦いを見ながら子どものころに戻ったような気分になった。
舞台は夢の世界へ。雪がゆっくりと降りてきて、照明に当たって星のように光る。やがて「雪の花のワルツ」が始まり、群舞が輪を描く。彼女もその輪に加わっていた。浮き上がるような軽やかな足さばき。見えない雪玉を追いかけて、くるりと転がって、起き上がってにっこり。客席から笑いが起きて、僕も笑った。計算された、それでいて本物の楽しさだった。
雪の世界を抜けると、そこはお菓子の国だった。最初はスペイン。情熱的なリズムに合わせて床を踏み鳴らす。アラビアの踊りはゆっくりと、液体のように動いた。中国の踊りはぜんまい仕掛けのおもちゃみたいに跳ねて、ロシアの踊り手は舞台が狭く見えるほど飛び回る。次々に現れる踊り手たちに目が追いつかない。舞台の隅から隅まで、色と音で埋め尽くされていた。
雪の景色が静かにほどけていき、舞台は夕闇の森へと変わる。枝が頭上で弧を描き、やわらかな緑の光が木漏れ日のように降る。彼女は今度は森のダンサーのひとりとして現れた。何枚も重ねたチュチュがひらりと広がる。森のきのこの傘みたいだ。あまりに似ていて、それ以来、僕らのあいだでは「きのこダンサー」というあだ名が定着した。上品さと、土の匂いのする愛嬌。両方言い当てた名前だと思う。ダンサーたちが次々と舞台に加わり、一列に揃って動き出すと、ホールの空気ごとふわりと持ち上がるようだった。風に舞う葉のように腕を動かし、回転のたびにチュチュが光を受ける。まるで、妖精の輪から抜け出してきたばかりのように見えた。
やがて音楽が静まり、主役の二人が現れる。金平糖の精とその相手役。たった二人なのに、舞台が狭く感じられた。音楽は鈴のように澄んだ音へと変わり、小さなガラス玉が落ちてくるような音が続く。妖精が高く持ち上げられ、雪のようにふわりと降りてくる。息をするのを忘れた。あの瞬間、ホール中の誰もが同じだったと思う。
繊細で、華やかで、不思議に満ちた最後の音が消える。ダンサーたちが一列に並び、カーテンコールに応える。オーケストラは素晴らしかった。観客は総立ちになり、拍手がホールを包み込んだ。彼女は笑っていて、少し息を弾ませ、汗に光っていた。いたずら好きな少年、雪の踊り手、きのこダンサー。どの姿もしっかりと記憶に焼きついた。
公演が終わったあと、僕のなかにはいろいろな感情が溢れていた。この舞台を観る機会を持てたことが嬉しかった。想像していなかったほど心を動かされた。
僕をあの舞台に連れていってくれた友人のことをずっと考えていた。彼女は控えめな人だった。居酒屋で初めて会った夜、彼女は静かな声で、少しの気取りもなく話してくれた。それなのに舞台の上では、少年のいたずら心も、雪の踊り手の身の軽さも、森のダンサーの気品も、どれもが彼女の身についたもののように自然だった。雪玉を追いかけて転がり、にっこり笑ったあの表情。カーテンコールで息を弾ませ、汗に光っていたあの姿。どれもいまでもはっきり思い出せる。彼女こそ「なでしこ」という言葉が似合う人だ。静かな強さ、優しさ、凜とした佇まい。そのすべてをあの夜、舞台の上で見せてくれた。こんな友人を持てたことを僕は誇りに思う。
終わってしまったことが寂しくて、もっと観たいと思った。
あの夜以来、年末に『くるみ割り人形』を観ることが僕の恒例になった。毎年、劇場に足を運ぶ。雪の夢の世界へ。光る森へ。あの温かな余韻をもう一度もらいに。東京文化会館のツリーは毎年すこしずつ小さくなっている気がする(関係者のみなさま、来年はどうか大きめでお願いします)。それでも、あの夜の魔法が色褪せることはない。
もし『くるみ割り人形』を観たことがないなら、心からおすすめしたい。音楽に身を任せてみてほしい。あなただけの、新しい年末の習慣が見つかるかもしれない。
今年も、僕はまた劇場へ行く。できれば今度こそ、我が家の猫のモチとの約束を果たしたい。ええ、猫の入場は原則として禁止されています。なので、トレンチコートを着せて、ヒゲを整えて……うん、やはり難しい。でも約束は約束だ。劇場のみなさま、どうか見逃してください。……なんてね。
この記事はAIの助けを借りて作成され、人間によって編集されました




